人生の種蒔き

私の生活は基本「修行」で瞑想や読書や分析やリサーチ。私のデスクの前に置かれているホワイトボードも書き込みがぎっちり。

こういう生活だと一番くるのが、運動不足。

 

私はできるだけ毎日軽い運動、ストレッチをやるのですが問題はグルジ。。。

この方、とにかく執筆に没頭するので一切動かない。

言わなければ一生ストレッチも運動もしないくらい。。。。

目の前でやって「さあ一緒にやろう!」と言ってもダメ。

しまいにはダンベルを購入!

絶対グルジは気にいると直感で感じたので。

でもダンベルが配達されても、見向きもしなかった。。。。

 

そして、運動をさせる素晴らしい決定的アイディアが浮かんだ!

「グルジ、私は明日から掃除、洗濯、食事の全てをやらないことにしました!グルジは運動不足なので、これら全てを自分でこなすことが丁度いい運動になるでしょう。じゃ、頑張って!やらないって言ったらやらないから。」

とバッサリ(笑

と言った直後、

「キッチンタイマーを25分セットしてくれ!よし、運動だ!」とダンベルを持ち出して運動開始!

すごい単純な人で。。。

 

その後「運動したらすっごい頭が冴える。。。それにこのダンベル重さが丁度良くてすごいいい!」と。。。

 

押してダメなら、引いてみる作戦大成功!

やっぱりダンベルが気にいる直感は当たってた。

ということで、毎日軽く運動するようになりました(笑

継続してくだされ グルジー!

 

 

さて、話は変わって。

物事は継続するのが何よりも大変。

何か始めるのも簡単だし、やめるのも簡単。

でも続けるのは大変。

ある方が「趣味でやっていたことを本業にするために、仕事を辞めて学校に行こうと思うのですが合ってるのでしょうか?」と尋ねてきました。

まず仕事を辞めても構わないほど好きだってこと。

学校に行くほど本業にしたいと思っていること。

よほど気質に合ってなかったらこの二つは思わないですよね。

人にとって一番好ましい歩み方は、好きなことを一つ選んで突き進む。

時間を忘れて没頭できることがあったら、それは合っている、そこに才能があるということでしょう。

でもそれをプロになるまで引き出すにはど根性が必要。

 

1度の人生なんてものすごい短いから、一つのことを極めようとしたら、極められるかられないかで終わってしまう。

それほど一つを極めるって大変なこと。

もしこれをやってみよう!と思っても

1、2年やって食いつなぎに繋がらないからや~めた。って思うくらいなら初めからやらない方がいい。

時間とお金の無駄です。

 

一つのことを掘り下げて掘り下げて、勉強して世界を広げて行ったら最後には全てが繋がってくる。心理/真理にも宇宙にも最終的には全てが繋がって理解できるようにできている。

 

これは飽きたから、今度はあっちとかあれこれ手ばかりつけても、学んでいることは何もなくタイトルを集めているだけ。

深みを知るには並大抵の努力じゃダメだし継続しなくてはならない。

継続中で収穫が得れない時が一番苦しいし、一番面白くない。

でもその時にどれだけ頑張れるかが勝負になってくる。

そこで諦めずに頑張った人だけが果実をもぎ取ることができる。

 

グルジはいつも言います。

何のタネを蒔くのか。

ほうれん草の種を蒔くなら数週間後にはもう収穫ができる。

でもマンゴーの種を植えたならたくさんの実が食べれるまで何年かかるんだ?

ほうれん草の種を蒔く人は努力をしたがらない人。すぐに結果が欲しくて長年待つことすらできないしその努力もしたくない人。一時的な快楽を欲する人もそう。

でもマンゴーの種を植えたなら辛抱しなくてはならない。

努力ばかりで結果が出るまでは長い。

マンゴーは100年経ってもたわわに実をつける。

どれだけの人たちを甘い果実で喜ばせることになるんだろう。

 

きっと一つのことに長年の努力をした人もそう。

深みも横幅も高さもつけて、たくさんの人に伝える何かが出来上がるはず。

 

オムカレショール

ナルマダ川の続きで最後になりますが、中流と下流の間にあるオムカレショールです。

 

ここは昔グルジが滞在して、”水面を歩いて渡っている人を見た”という伝説の地。

インドは暑い国なので、11月から1月の間が一番涼しく歩きやすいので、その時期を選んだにも関わらず12月のオムカレショールは38度あり暑かった。。。

 

橋から見下ろすオムカレショール。

何とも今までに感じたことのないインドのエネルギーで不思議なくらい懐かしいような、とても自分の肌に合う感覚でした。

夕方

夕方のアラティ    

 

ここでもボートツアーがあります。

ボートは6人くらい集まればひとり100円程度で乗れるのですが
残念なことにこの日はボートツアー客ゼロ。。。6人分チャージされますが貸し切りで行ってもらうことに。

 

穏やかな流れの、苔むした岸壁を通過

 

さらに進むといくらか流れが強くなってきた。

グルジのお髭もなびくほどの強風!

急流によりボートが岸に近づき過ぎてスタック!
二人のうち一人が降りて、向きを変更。
危険で大変そうだけど、かなり慣れてる様子だった。

さらに進むとなんと、Uターンポイント。
なんとオムカレショールは島だった!

グルジが「あそこだよ!右側の2番目の山の下!あそこで水面を渡る行者を見たんだよ!」って指をさして教えてくれた。

オムカレショールの町から3キロくらい。

さすがに町の近くではそういうことを披露する行者はいないので、奥地に行かないとそういうチャンスはないそう。

それにきっと見るに値する人だけが偶然のように見るチャンスを与えられるんだろうな。

グルジは当時、水面を歩いていた人に

「今朝、水面を歩いて川を渡っているのを見たんだけど、どうやって歩いているんですか?」って本人に聞いたら

「ふっ。」って笑って一言も答えてくれなかった。。。と言ってました。

Uターンすると

なんと、川沿いに行者の家?みたいな小屋があった。
当然水道水もないだろうから、どう飲み水を確保しているのか?

でもこの環境で瞑想しているとしたらすごい羨ましい!

帰りはまたの〜んびりとした流れになり、島1周はとても気持ちよかった。

 

町に戻ってレストランで勤めてる男の子たちに
「オムカレショールには水面を歩く行者がいるって聞いたけど、そういうの信じる?」と聞くと

「え?ここではそんなの普通だよ。よくある話だし、僕のグルだって出来るよ。」って

私がすごい野暮な質問したかのような返答でびっくりした。。。

さすがインドだ。。。

 

 

船着場の上にある寺院。

 

この種の猿は比較的穏やかで襲ってこない。

庭じゃなくて、車道で水牛の乳搾り。

 

ここで一番美味しかったのはこれ!

生のチャナ。(ひよこ豆)

これは地元特産みたいなもので、どこででも食べれるわけじゃないんです。
乾燥したひよこ豆はどこでも手に入りますが、これはまだ青い生のひよこ豆で、この暑いエリアと、シーズンの時だけ食べられる。
大豆でいう枝豆みたいなものです。

皮ごと炒って塩で味付け。

毎晩このおじさんから買ってました。

 

今度行くときは、テント持って奥地で瞑想しに行きたいところです。

 

ジャバルプール

 

ここはOshoの生まれ故郷。

 

ここにはアマルカンタックの源流よりもずっと川が太く激しくなります。

 

ジャバルプールはインドの中でも群を抜く美しさ!

今回の巡礼はグルジにとっても初めての場所ばかりで、特にここは美しい!素晴らしい!と感動してました。

 

レストランから眺めたナルマダ川

 

この地での1番の見所は何と言ってもベダガート!

この入り口からは想像もつかないのですが、ここから1キロくらいかな、
歩いて中に入って行くと。。。。

こんなすごいことに!

 

ロープウェイからの撮影。
上から見るとまたすごい迫力だった。

 

宿が密集している地域に戻るとボートツアーがあります。

これがまた素晴らしい。

ボートの料金が高いのと安いのがありますが、距離の違いなので高い方を選ぶとかなり奥まで入ってくれます。

釣りしてるおじさん。
岩はだに降りてきて「魚いくらー?」と買っている人がいましたが
魚を捕まえて売るのは禁止なんだそう。

 

ここの道中で出会ったのがOshoのお弟子さん。

Oshoのアシュラムにも泊まれますよと教えてくれたのですが、Oshoのアシュラムは宿だけじゃなく、カリキュラムをこなさなくてはならないので今回は自由行動を好むので別の宿をとることに。

グルジがOshoの弟子ではないが、Oshoのことは尊敬している。Oshoの本は400冊読んだからよく理解している。というと

このお弟子さん「弟子の私は20冊程度しか読んでないのに、あなたは400冊読んだって。。。弟子以上ですよ。どうかアシュラムも見にきてください。中を案内しますから」と言って、数日後バイク2台で弟子仲間の友人を連れて迎えにきてくれた。

 

ダンスホールの中。
Oshoの瞑想法の一つで、激しく踊り疲れて座ることでマインドが落ち着きやすくなるという方法。

 

Oshoのアシュラムはとても綺麗で庭に大きな岩がある。

生前Oshoは朝3時にここの岩の上にきて毎日瞑想していたのだそう。

この岩は誰でもあがって瞑想して良いらしくみんなであがらせてもらいましたが、そのエネルギーのすごいこと。

岩の上に立ってるとは到底思えないエネルギーで、まるで軽いスポンジの上に立ってるみたいなんです。

あれは不思議な異次元みたいだった。

 

 

ドーム型の瞑想室。

一歩入っただけで目が回って吐きそうになり即出てきちゃいました。
エネルギーに敏感すぎると笑われてました。

 

 

この岩もすごかったけど、この巡礼で一番印象に残っているのが、やはりこのお弟子さん。
左から2番目。

右から2番目の方がアシュラムの2番手のリーダーと聞きました。
この方す〜〜〜〜ごい柔和なエネルギーで柔らかい愛でハグをし、時間をかけて相手にそのエネルギーを受け渡すというのを彼らは実践しています。

ここを案内してもらった後に、さらに数キロ離れたところにあるパークへ連れて行ってくれました。

そこはOshoが瞑想して悟りに至ったと言われる木。ブッダみたい。

年に1度だったかな、解禁されその時だけ誰でも入れるんだそう。

なんかオーブみたいのがたくさん出ちゃったけど、霊現象じゃなくてこれカメラのせいです。

この日の夜に私たちは出発しなくてはならなかったのでお別れの前に一緒に夕食をしました。

彼は払う気満々でしたが、こんなに私たちに色々見せてくれているのにさすがにそれは出来ないとこちらがご馳走したのですが

ならば!と最後にインドのスイーツを箱詰めにして「ここの町で一番美味しいスイーツです。電車の中で食べてください!」と。。。

愛を与えたい一心なのが伝わってきた。。。

スーツケースがあったので、タクシーで駅まで行くと言ったにもかかわらず、僕たちがバイクで送りますから!「僕たちの愛を受け取れないというのですか!」とまで言って駅まで送ってくれた。。。

こんな純粋な愛に溢れた人にインドで会ったことがなかった。

さすがOshoの生まれ故郷でのお弟子だけあって純度が違う。

インド人はガツガツしているので、心が純粋だ。。。と思える人に出会えることが殆どない。

 

インドにもまだいた。。。とこの人たちに会えて本当に嬉しかった。

 

ジャバルプールの自然もすごい感動だったけど、人が与える感動に勝るものはないなぁと思いました。

 

アマルカンタック

 

昨年2ヶ月近く巡礼したのですが、その時のいくつかを載せてみたいと思います。

当時絶対に行ってみたいと思っているところがありました。

アマルカンタックという山。

 

寝台列車で17時間くらいかけて到着。

駅からバスでさらに山を登ります。

アマルカンタックは宿が少ないのでいくつか中を見せてもらい、その中でも綺麗なアシュラムを発見。

 

インドはガンジス川に続き、次にナルマダ川が有名。

ここはそのナルマダ川の源流にあたるところで行者にも人気の地。

ここがアマルカンタックの寺院で湧き水のように池になっていますがここが源流なんだそうです。

この穏やかな湧き水がどんどん下流に行くごとにすごいことになります。

川沿いにある村。

 

川沿いの井戸から水を汲む女性。

 

道中のチャイ屋

 

たくさんの行者がアマルカンタックから巡礼を始め、一番下流まで行き今度はぐるりと回り、川の反対側を歩いてアマルカンタックに戻るということを半年くらいかけてやっています。

 

ここでの挨拶は「ナルマダーハラ!」

ナルマダ川をリスペクトする挨拶で、川沿いを歩いている巡礼者たちは「ナルマダーハラ!」と威勢良く挨拶します。

初めはなんて言ってるのかわからず「ナマステ」と言い返していたら「ナマステ?」と変な顔して見られてしまいました。。。

 

山の中をしばらく歩くとついに滝つぼにたどり着いた。

さらに進むと小さな二つの滝に分かれる。

 

ナルマダ川の源流に触れることができて本当によかった。

 

そして次は中流にあたるジャバルプールです。

 

 

ヴリンダヴァン

ここRanchiにくる前はアルモラというヒマラヤのほうにいたのですが、丁度その前にヴリンダヴァンという町に4ヶ月ほど滞在しました。

ここはクリシュナ神を信仰する町で、町中がクリシュナ神を祀る寺院でいっぱい。

その上 ISKCON という(International Society for Krishna Consciousness) クリシュナ神を信仰する世界的に有名な宗教があり、外国人もたくさんきている。

道で「ハレークリシュナ ハレークリシュナ クリシュナ クリシュナ ハレーハレー ハレーラーマー ハレーラーマー ラーマーラーマー ハレーハレー♪ 」って歌っている人見たことありません?

 

昔ハワイ島に数ヶ月滞在したとき、たくさん ISKCON のメンバーの方々がいて、道で一人で鈴を持ちながら、この歌(マントラ)を歌ったり、泊まった先の宿の管理人がそのメンバーだったのもあり、グループのディナー(ベジタリアン)に招待され行ってみたりと、クリシュナ神を信仰する人々と触れ合う機会がありました。

この時は全然 ISKCON なんて言葉も知らなかったのですが。

なんとも明るい人たちで正直驚いた。

 

クリシュナ神はシヴァ神と対極とも言えるエネルギー。

シヴァ神はヒマラヤの神で集中や瞑想といったクールな静寂なエネルギーがあるのに対し(破壊と再生の象徴の神でもある。瞑想そのものが破壊と再生!)

 

クリシュナ神はいつも笛を持って歌って踊って常に明るい喜びのエネルギー。

 

10年近く経ってヴリンダヴァンに導かれ、「あー!あのハワイで歌って踊ってた人たちのグループか!」と知ることになったのですが。

この町は外国人の数が多いですが、インド人もクリシュナ神を信仰する人たちで溢れています。

 

まず面白いのが、挨拶。

寺院にはクリシュナ神はラダという女神と一緒に祀られています。

クリシュナを愛する女神で、このラダという名前が変容しラデになり

この町ではこんにちはの挨拶は「ラデラデー♪」なんです。

すごい可愛い。

 

というか、ちょっとした挨拶は全部ラデラデで片付く。

さようなら~もラデラデ。

ちょっと失礼もラデラデ。

電話でもしもしもラデラデ。

 

これはインド人の中でも笑えるらしく、ラデラデ外から来た人はそういう言語を使わないので「挨拶がラデラデはおもしろい」と言っていた。

 

自転車のリキシャなんかも、人混みの中に入るときは「ラデラデ~」とベルを鳴らす代わりに言ってます。

 

ヴリンダヴァンは小さい寺院や古い寺院もたくさんあり、どこもクリシュナ神を祀っている。

ここには4ヶ月しか滞在しなかったのですが、ここは何が良かったって

グルジの頑なさが抜けた!

 

ホントーに頑で、殆ど笑わないし、緩みがなかった。。。

裏表のないシンプルな人柄なんだけど、 柔らかさを表現することは稀でとにかくカタくてどうにかならないもんか。。。と思っていたところでヴリンダヴァンに滞在することになり、変容に導かれました。

 

ある日、街中の寺院を参拝しに行こうとなり、イスコン、プレムマンデル、スワミヴィヴェカナンダーの寺院や、街で一番古い寺院ととにかく小さな寺院もたくさんあり、数日かけて片っ端からまわりました。

 

まずはイスコンの寺院。

この建物、左側に二階に上がれる行列ができていたので、何が見れるのだろう?と思い参列してみると、なんと大きなホールでタイルだけ。。。

タイルに道順のようにマークがついていた。

入場する前にあの「ハレークリシュナーハレークリシュナー・・・・・」と書かれたマントラの紙を渡されタイル1枚ごとにこのマントラを全て唱えなければ次のタイルに進めない。

そして108枚のタイル全部を終えると、出口に到着するという仕組み。

こんなことが行われているなんて知らず、もう引き返すこともできず入ったものの、マントラに慣れてない私たちは遅いのなんのって!

後ろの人たちが「おっせーなー早く行けよ!」って、言いたげな威圧的なエネルギーが押してくる。。。。

マントラに慣れてるのがよくわかり、私の5倍くらいのスピードで唱えていた。。。しまいには遅すぎて抜かされた。。。。

 

とても美しいデザインで通路も綺麗にされ
たくさんのクリシュナ神の写真が飾られている。

寺院の中。

こちらが創設者のスワミ・プラブパーダの銅像
通常は扉が閉まっているので、謁見できる時間帯に行きます。

夕方のバジャン(歌
半分くらいロシア人らしい。

 

次はプレムマンデル(愛の寺院)

日中は息をのむほどの美しさ。

規模が広大すぎて、寺院というよりちょっとディズニーランド化してる気も。。。右のドームもその一部。

夜になると電飾でまた一味違う寺院になる。

 

 

ある由緒ある古い寺院で行われていた演奏。

 

 

スワミラーマクリシュナと弟子のスワミヴィヴェーカーナンダの寺院。

お庭も中もとても綺麗に管理されてました。

中央 師匠 スワミラーマクリシュナ
左 スワミヴィヴェーカーナンダ
右 スワミラーマクリシュナの妻 サラダマー

 

途中見かけた、これ。

なんとスクールバス!

ブル(雄牛)パワー エコフレンドリーバスと書かれている!

後ろから見ると護送車なんだけど、これはすごい可愛かった。

 

ヴリンダヴァンでの参拝でたっぷりとクリシュナ神のエネルギーを吸収できたようでグルジが自然に明るくなったんです。

さすが歌って踊って喜びだけを表現する神なだけある!

 

グルジは幼少の頃から家族の苦労を背負いすぎたり、その上過酷な環境で修行に入ると決めたのもあり、「ハードに生き抜く」になってしまったのもあると思います。

元々あった明るさを取り戻すためにこの街に呼ばれたようです。

 

グルジの明るさもすっかり取り戻したので4ヶ月でアルモラに移動となりました。

 

後世に受け継がせる大人

山口県の行方不明の2歳の男の子、理稀ちゃんが見つかって本当によかったですねー。

まさかのボランティアの男性が発見するとは!

 

この尾畠さんの「命を救ってあげたい」と涙ぐんでいる映像見て貰い泣きしちゃったなぁ。

本当に人生のラストスパートをこの世に貢献していくんだという意志がかっこよすぎて泣けてくる。

 

グルジにこのニュースを話すと

「そのボランティアの人の生き様を世間に知らしめるために、この事件が起きたのかもね。」なんて言ってました。
(何よりもこのお子さんが無事だったのもあるから)

 

そっか、そういう方向性もありか!とちょっと納得でした。

 

最近グルジとよく話しているのが、老後について。

インド人は基本的少しでもお金がある中流階級ならハウスキーパーを雇って掃除に食器洗いも全部やってもらいます。

そもそもインド人の主婦は外では働かない。

外で働く女性はかなり少数。

基本男性が外で働き、妻は家事と育児。

まぁ昔の日本もそうでしたね。

今だからこそ共働きなんて普通になりましたが。

昔は共働きはなかったでしょう。

ここは一昔前の日本の状況です。(離婚も然り。離婚すると社会から後ろ指さされるのでかなり少ない)

 

でも違いは、中流階級以上が「私たちは上よ」的なあり方。

もう子供もみんな自立して、手もかからない。

そうなったら「私たち何もしなくて食べていけるのよ!」というのを見せるという方向に行くんです。

 

外での仕事もない、家での仕事もない。

食べてテレビ見て寝る。

「私たちは食べてテレビ見て寝ることが毎日できるのよ、すごいでしょ」というのを見せるのがステータス。。。

 

子供がたくさんいて大変だからハウスキーパーを雇うならわかるけど、子供も巣立っていない、夫が一人いるだけでなーーんにもすることないのに、掃除も食器も洗わない。

本当に皿一枚洗わない。これはびっくりする。

「明日掃除婦が来るから置いとけばいい」と聞いた時はこういうステータスなんだぁと真剣に驚いた。

 

ちなみに、一日100円で朝晩と2回クリーニングにきてくれる。

確かにこれだけ安く雇えるんだからやらなくもなる。。。

 

私は雇っているのか?

グルジも雇ったらいいと言っていたけど

私は頑としてNOを貫いてます。

毎日全部屋の床のモップ、棚の埃、トイレ掃除、キッチンもきっちり綺麗にしますが(病気じゃない限りは毎日きちんと)他人が入ってきて手をつけるというのは、家の中に他人のエネルギーが山ほど付着することになる。

それが嫌なので、全て自分でやります。

やらなくてもどうにかなってしまう、面倒なことをしっかり毎日やる!と決めると規律のある精神を作り上げることになる。

瞑想や読書ばかりは良くない。

体もしっかりと動かさないと。

 

話は戻って。

ある時、グルジが仲良くなったリタイアした近所のおじさんに「あなたは毎日何をしてるの?死ぬのをゆっくり待ってるだけ?」と聞いたそう。

よくそんなこと聞けたなーと驚いたけど、聞かれた本人も「えぇ!?・・・・・・・確かにどう過ごしていいのかわからない」と素直に答えたそう。

 

このおじさん昔はプットボールプレーヤーだったらしく、ほかにもラジオ局で活躍したりととにかく精神も肉体もかなり強い。

持ち家に住んでいるし、ほかにも土地や家もある。

何も困ってないんです。

 

でも60を過ぎてリタイアした時、このエネルギーを何に使っていいのか全く見当もつかず、ただ無駄にダラダラと毎日が過ぎるだけ。

これだけのパワーも財産もあるのだから、ボランティアの尾畠さんと同じとまでは言わないにしても、何か若い人たちに貢献できることができたらいいのに。。。。とグルジも本人に言ったそう。

 

老後が暇でやることないなんて、正直私はそんな自分は想像できない。

老後は今よりも活発でありたいくらい。

 

私はまだその年齢に達してないからなんとも言い難いですけど、でも今40代に入って(なんか年齢いうのもやだなぁ)感じるのが、やっと大人の精神が芽生えてきたところだと思うんです。

もしかしたら60歳まで生きていたら、40代はまだ子供だった。。。って言ってるのかもしれないけど。

 

20歳から成人とは法律であって、精神の成人とはかけ離れているじゃないですか。

私の20代なんてまともに生きなきゃならない、人に迷惑をかけるようなことはしないようにしなきゃいけないと、戒めながら頑張ってきましたがな~んにも知らない子供。

だからこそ、何がまともな精神で、どうやったら精神が成人になれるのか必死に何百冊も本を読み漁り瞑想に耽っていた。。。

 

どの人もみんな壁にぶち当たりながら一生懸命生きていると思います。

でも物やお金だけ増やして立派だと勘違いしてたり、感情のコントロールさえまともにできずに家族に当たり散らして、その上外ではよく見られるための名誉欲ばかり。

 

精神が子供のままの大人ですよね。

現にそんな人たちばかりじゃないですか。

尊敬されるような、こういう人間になりたいと思われる大人がどのくらいいるだろうか?

一握りじゃありません?

 

じゃ残りはまだ精神が成人になってない大人ってこと。

また尾畠さんの話になっちゃうけど、名誉が欲しいとかじゃなく、この方は心で動いてますよね。だから逆に名誉に繋がる。

被災地にまで行ってボランティア活動したり、脱帽でございます。

 

最終的にこのような立派な大人になるんだというのを言い伝える、または見せて教えるくらいの、後世に立派な大人とはどうあるべきかを言い伝え、模範となるような大人になることを一人一人が心がけなければならないですよね。

それだけの人生経験を積んできてるのに、教え継がせることが何もない大人じゃダメだと思うんです。

私も自分で書きつつ、肝に銘じて生きていかなきゃ。

 

 

オリジナルの自分はどこ?

インドの長雨はまだ終わることなく、シトシトと小雨の毎日です。

日本は台風が相次いでいるようですが、お気をつけてお過ごしください。

この数週間はずっと朝6時以降に就寝というサイクルになってしまってます。。。

グルジが最高の執筆のペースに入ったのもあり、朝までお茶汲みです。

といっても、もともと私は朝まで起きているのは全然平気なので、私も朝まで瞑想したり読書してます。

最近は瞑想から得れる気づきが多くて、楽しくなっちゃって、1日が2、3時間しか感じられない日もたくさんあります。

 

今起きたのに、もう寝る時間?というこの感覚はほんと不思議でこのスピード感がちょっと怖い。

 

今日はマインドについて書いてみます。

以前グルジは一人で修業しながらあちこち転々としていたとき、アシュラムに宿をとっていたのだそう。通常アシュラムは行者には3日まで無料で泊めてくれます。

ただインドでは行者というのは、グル(師匠)がいてどこかのオーガナイゼーションに所属しているという証明が必要。

例えば私はOsho の弟子です、とか。

どこにも所属してないとなると、通常どこも泊めてくれないので食いつなぐことさえできない。。。

それもあり所属してない行者はかなり少ない。

グルジの場合、その所属してない一人だった。

というか、インド中グルを探しても見つからなかったらしい。

そこらへんにいるグルなんて大した知識も持ってないのが現状。だから自分よりもはるかにすごい知識を持っている人に出会えなかった。。。と言っていた。

でも尊敬している行者はいるらしい。

グルジのあるときの話が面白い。

どこかに宿を取ろうとアシュラムに行ってみると「あんたは誰だ、どこに所属している?」と聞かれたのだけど、「所属してない」と言うと「エセ行者め、出ていけ」と突き返されてしまった。

でもそこで、このアシュラムの運営者はどこだ?話をさせてくれ。と頼むと電話をかけてくれて、運営者のトップと話をすることが出来た。

運営者は「あなたはどこの所属だ?」と聞かれ「所属していない」と言うと

「どこに住んでいる者だ?」と聞かれ「ここに住んでいる」と答えると

「どこだ?」と言うので「この身体に住んでいる。私の家はこの身体だ。」と言うと「あなたは誰だ?」と聞かれ「それを知るために修行しているんじゃないか!」と答えた。。。

運営者はアシュラムの管理人に電話を代わってくれと言い

「この人は本物の行者だ。一番いい部屋に通して食事を出しなさい」ととても綺麗なゲストルームに泊めさせてもらったのだと。(通常行者はホールでみんなと一緒のスペースで寝かされる)

このやり取りで「本物だ」と捉えるところがやはりインドだ。

グルジはいつも「下っ端と話してもダメなんだ。所属してなければどこも受け入れない。だけど上と話せば間違いなく理解される。それだけで生き残れた」と言っていた。

まさに、自分を知ると言うのが修行。

私は訳のわからない考え方や固定観念になっていることや、変な感情的反応の仕方だったり、心に反する思い込みがあったりすることがとても不思議に感じた。

一体どこからどう沸き立つのか?

これは本当に全て私が発信したものなのか?

これは全て独自のオリジナルなのだろうか?

不思議で不思議でこういった内容ひとつひとつ気がつく範囲をどれもこれも拾っては、それを対象に瞑想してみた。

これは私の?違う。これは母親のエネルギーとパターン。

これはどうだ?違う。。。これは生まれながらに父親から譲り受けたエネルギーと気質。

じゃこれはどうだ?一緒に過ごしたことも全くないおじいちゃんのパターン。

じゃこれは?前世の経験から得たものだ。。。今世では全く経験にないもの。

ってな具合で何日も何日も何日も何日もかけてひとつひとつを拾い上げては瞑想し、それが自分オリジナルのものか探ってみた。

で、結果自分のオリジナルの思考というものは一つも得れなかった。

そう、自分のマインドにオリジナルはない?

この思考がオリジナルじゃないとなると、私は誰なんだ?!となる。

じゃ、自分というオリジナルの存在はどこにあるのか?

それは魂のレベルの自分。それはオリジナル!

 

つまり通常の思考レベルで稼働しているものに独自のものはない。

そう書いちゃうと人生が全く味気なくなる。。。?

どれもコピーだったり、どこかから入ってきたもの、またはリンクしたものだったりする。

 

突如思い立った素晴らしい発想でも、宇宙のどこかにあったその想念が入ってきたりしてるってことになる。

それを使う使わないは自分の理性になってくるし、スペースのあるところにその想念やエネルギーが入ってくる。

つまり存在しない「考え」はないってことになる。

どこかにその思考が存在していて、それが自分にリンクしてくる。

 

でもオリジナルというのは、例えば本を書く人なんかで、何千冊も人の書いたものを読みあさり、それを自分なりにまとめて出版するなんて人もたくさんいると思います。

でも自分の経験を踏まえて書いている人は、オリジナルの作品と呼びたいですよね。マインドというシステムにオリジナルはないにしても、コピーをしてない作品は努力の結晶でオリジナル作品だと思います。

 

グルジはこう言います。

「やりたいところ、やれるところにエネルギーが集まるんだ」と。

「つまり宇宙の全バランスの中に、必要とするスペースと、やりたい+やれる能力を持ち合わせたところがマッチするようになっている。」という。

例えばこの世にたくさんの人が面白い本が読みたい!誰にも書けないような吸い込まれるような小説が読みたいという、宇宙におもしろ小説が読みたい願望のスペースがある。

そこに「今世では書きたい!面白いストーリーを書き続けたい!前世からもストーリーを書くことはもう経験を積んでいる」という願望と能力を備えた人がぐっと押し出され、世界中に翻訳されるほどの村上春樹さんみたいな人が出てきたりするということ。

そこで私は「やりたい願望+能力」が備わっているのに、やらない人って結構いる。これは?」と聞くと

「勇気と度胸がない」とあっさり。

そこだ。。。。

まさしくそこだぁ。。。

どんなに願望と能力があっても、「批判されたら。。。。売れなかったから。。。」というところにしがみついていたら前進するのは無理。

人間にはある程度の勇気が必要。

最終的にやってダメより、やりたいことをやらずに終わる方が人生堪えるでしょう。。。

私はやらずに後悔するより、やってダメだとわかる方がいい。

やってダメでも、もっと改善するには、もっとできるようになるにはと努力と研究を重ねたら、ダメだったことが「できた!」に変わることもある。

好きなことは諦めない。

今世で100%に達成せず、80%しかこなせずに終わっても、決して無駄はない。

来世その80%からのスタートになるから、いきなり「この人才能ある!」みたいなスタートがきれるわけ。

あの人は才能があって、あの人にはないという不平等というのはないんですよ。

前世のバックグラウンドが見えてないだけ!

だから何を努力しても決して損にも無駄にもならない。

好きなことに徹するのは素晴らしいこと。

ひたすら毎日の努力の積み重ね。

 

心の平穏

私たちは何によって生かされているんだろうと考える。

食べ物があるから?空気が吸えるから?

それ以上の何かがある。

きっと天界のコントロール。

天界が電源のスイッチを押したら、はいそこまで。

ゲームオーバー。突然その肉体での人生は終わってしまう。

あっけないよね。

 

私は年々欲しいものが減ってきている気がする。

 

昔は華やかなものが好きだったし、あれこれ欲しいものもあった。

でもこの呆気ない人生をどう活かすのかを考えると、物理的な物だけを追っていては全部得きる前に終わっちゃうよ。。。。と思う。

きりがないから。

 

お金、車、家、ブランド品に貴金属・・・

それからそれから、名誉に独裁、独占、性欲、食欲を満たす!

どれも抗し難く、なんと魅力的。

当然、家や車なんかは、良いものがあるに越したことはない。

昔は私もどれかしら欲してた。

 

今はこういったことが先頭を切るのではなく、「真理を理解する」こと「エゴを捨てること」真理を理解した上で心と行動が伴うように努力することの方がずっと大切になった。

昔魅力的に感じたことが、私の心の中で輝きを失い、「真理」と言う存在がタスキをかけて走るようになった。

 

もう一つ言うと、ポジティブな感覚ばかりに捕らわれ、ポジティブな感覚を貪る欲求も落ちた。

いつも偽善者のようにニコニコしていい人でいようとしたり。

 

ポジティブでもネガティブでも無意味な餌をやらないようにしないとならない。

例えば金持ちが、金持ちであることをひけらかすために「こんな服も買った、こんな高級時計も買った」って見せびらかし「うわ~すご~い!」って人がよってくるのを楽しんでいるとする。

そう言われることが嬉しい。そう思われ続けていたい。それ以外にステータスもないからそれを維持することで自己価値が保てる。とつまらないエゴの自慢の感覚に自分でいつまでも餌を与え続ける。

 

自分の中では名誉でポジティブな感覚だけど、いつまでも続ける価値はあるのだろうか?

独裁的な人は、パートナーに「なんでお前はこれこれやらないんだ!」「あなたはいつも私の言うとおりにやらない!」と喧嘩口調でコントロールしようとする。

「いつも」そう言う口調で怒ってる人は、怒りで気分が悪いようで独裁的に上に立っていると思うので、実は気分のいい自分がいる。

そうしていれば、ナメられない、弱いと思われないし、価値を認めさせてやると弱さが丸出しなんだけど、本人はなかなか気づかない。

強く独裁的にいられるので気分がよくやめられず、そんな自分のエゴにも餌をやり続けてしまう。

 

そういう自分をやめれないというのはウソ。

気分がいいから、やめたくないだけなんです。

どんなつまらないエゴでも満たしているときは気分がいい。

だからやめられない。

でも後で振り返ると、なんでこんなつまらないことやったり言ったりしてるんだろうと後悔する。。。

 

誰でも間違いは犯す。

エゴの優越な自分とそれをやってはいけない!と言っている自分をはたから見る。

間違いに気づけば反省が起き、何がやめるべきことで、何が新たなに行われるべきことなのかを見極め、入れ替えなくてはならない。

ただやめると決めるかどうか。

やめれないのは甘えね。

まだ人を使って、エゴを満たして甘えていたいだけ。

 

私は最終的に一番の財産だと思うのは「平穏な心」。

エゴの陶酔でもなく、究極にポジティブなハイの喜びでもなく。

平穏でいるというのは、結構難しい。

 

マインドはいつもすごいネガティブかすごいポジティブかでいたがる性質を持っているから。中間で動きがないようなところにはいたがらない。

マインドにしてみたら、「平穏」ってつまらないのよね。

怒りをぶちまけたり、恐怖に震えたり、エキサイトしまくっているのがいいと感じるかのがマインドの性質だから。

 

もちろんポジティブに感じるのは素晴らしいし、興奮するのも楽しい。

感情の動きも道具だから。

うまく使うだけのこと。

 

過激な動きが収まったところには、穏やかな幸福感とも言える平穏がある。

真理と繋がる平穏は心地いい。